先日、AKIベエ氏より、前回の艦橋の記事にコメントを頂き、「一億人の昭和史 [10] 不許可写真史」に掲載されている写真が、戦時中の「天龍」ではないか、というご指摘があった。
私は寡聞にして、同書の存在すら知らなかったのだが、幸い、近所の図書館に所蔵されており、早速検証してみた。
問題の写真は、同書の144頁[1] に掲載されており「17年6月 (日時不明) ソロモン群島ショートランド島沖で臨戦準備の2等駆逐艦 (艦名不詳・中型) の艦橋 輸送船天竜丸から撮影 曇らず・錆びず・黴ない8センチ双眼鏡も不許可理由」とのキャプションがある。
掲載状態では、かなり退色していたので、多少階調補正を行った。
ご覧のとおり、一見すると「若竹型」などに雰囲気が似ており、確かに、駆逐艦とキャプションがあれば見過ごしてしまいそうな写真である。
ところが、AKIベエ氏は、天蓋上に見張台や探照燈台が設けられていない事に注目。
これはどうやら、キャプションと異なり「天龍」ではないか、と疑問に思いコメントを頂いた次第である。
この写真は「天龍」なのか?
まずは、写真の特徴から、これが「天龍」なのか、検証してみよう。
目を惹くのは、前方に絞り込まれた、三角形のような羅針艦橋平面形である。
八八艦隊~大正12年度計画艦の初期の建造艦に良くみられる形状だ。
撮影当時現役で、このような平面形の艦橋を持つのは、私が思いつく限り、以下の辺りだろうか。
軽巡洋艦:「天龍」、「龍田」、「球磨」、「多摩」、「大井」、「北上」
一等駆逐艦:「峯風型」10隻、「神風型」9隻
二等駆逐艦:「蓮」、「若竹型」6隻
哨戒艇:「第一号」、「第二号」、「第三十一号型」5隻、「第四十六号」
掃海艇:「第一号型」4隻
それらの内の多くは、天蓋上に手すりやブルワークで囲われた見張台や探照燈台が設けられており、AKIベエ氏の指摘通り、そこでかなり絞り込むことができる。
以前製作した、駆逐艦「蓮」。
このタイプの艦橋は、羅針艦橋直上が見張台や探照燈台になっているのが基本。
この中で、天蓋上に何もない艦は、なんと「天龍」のみである。
同型艦の「龍田」ですら、1941年 (昭和16年) の写真[2] から、天蓋上にブルワークが確認できるため、除外されるのである。
改装時期が違うためか、羅針艦橋周りがあまり似てないこの2隻。
また、国立公文書館アジア歴史資料センター (以下、「アジ歴」) に1936年 (昭和11年) 訓令の固定天蓋装着についての文書[3] がある。
それによると、 「艦橋ニ現装備ノ測距儀ハ天蓋ヲ超エテ使用シ得ル如ク其ノ位置ヲ上昇セシム」とあり、天蓋の後端近くに貫通している柱状のものは、測距儀の架台ではないかと思われ、この点からも「天龍」説を推したい。
あとは、撮影データが間違っていると仮定した場合、「球磨型」4隻は昭和一桁代まで天蓋上に測距儀が無く、写真の形状に良く似ている。
しかし、写真左下の黒い物体、これは主砲の砲盾の背面と思われるが、「球磨型」の艦橋直前の主砲は後ろ向き繋止であり、仮に前方に指向していたとしても、もっと前方にあって写真には写らない。
但し、その場合は、1941年 (昭和16年) 以前の「龍田」の可能性は残る。
他にも幾つか識別点があるが、この2点が割と確実。
以上の事から、撮影時期が異なったしとても、この写真が「天龍型」なのは、ほぼ間違いないと思う。
「天竜丸」は「天龍」を撮影できたのか?
前述のキャプションの書き方からして、日時と撮影者はほぼ間違いなく、艦種だけは編集部の推定のように読み取れる。
では、確かにこの日時に「天竜丸」から「天龍」が撮影可能か、行動記録を辿ってみよう。
関係ないけど、名前が紛らわしいな。
名前が似ているので、色を分けた。
上図は、下記の行動記録の位置を地図上に示したものである。
まず、「天竜丸」は、特設運送船「天龍丸」の事と思われる。
彼女の行動については、「アジ歴」に行動概見表[4] が残っており、1942年 (昭和17年) 5月に徴用され、同年6月の航海が初の外洋任務となっている。
それによると、「天龍丸」は1942年 (昭和17年) 6月25日に大阪を出発し、同年7月7日にマーシャル諸島タロアに着いている。
撮影場所とされるショートランド島沖、というのがどこまで広い範囲を含むのか不明だが、大阪-マーシャル間の直線上からは外れるものの、補給や護衛の都合で迂回しても不自然では無い位置にはある。
では、その時、「天龍」はどこに居たのか?
幸い、こちらも「アジ歴」に所属の第18戦隊の戦時日誌が残っており、所在が特定できる。
それによると、「天龍」は「天龍丸」に先立つこと10日、1942年 (昭和17年) 6月15日に舞鶴を出発し、6月22日ごろ、トラック島に到着[5] している。
その後数日間、戦隊司令の交代や通信訓練などを経て、6月30日に同島を出発、7月9日にラバウルに着いている[6] [7] 。
地図上で見るとかなり広い範囲に見えるが、トラック-タロア-ショートランドを結ぶ三角形は行動記録の所要日数をみても10日と掛からない範囲である。
可能性としては、
- 6月23日~30日の間に行われた「天龍」の通信訓練の間、近海を航行中の「天龍丸」に一時的に随伴護衛をした。
- ショートランド沖に出て訓練中の「天龍」のすぐ横を「天龍丸」が通過した。
辺りだろうか。この場合は、撮影データと矛盾しない。
ただ、訓練にせよ、護衛にせよ、作戦を控えた「天龍」がそこまで遠くに出張るかな、と考えた場合、撮影日時もしくは場所を多少ずらすと以下の可能性もある。
- 便乗や追加任務のため、タロアに行く途中でトラックに寄港した「天龍丸」が、横に停泊していた「天龍」を撮影。(日時は6月で、場所が違う)
- ラバウルへ航行中の「天龍」とタロアへ向かう「天龍丸」がショートランド沖ですれ違った。(場所はショートランド沖だが、日時は7月初頭)
いずれの可能性にせよ、行動海域はほぼ同一と云って良いものであり、この写真は1942年 (昭和17年) 当時の「天龍」と断定してしまって良いのではないかと考える。
ちなみに、「真実の艦艇史2」の田村俊夫氏の考察によると、当時の天龍は最後の小改正を経て、この状態で戦没したようだ。
この時期は、艦橋直上にあった探照燈が、煙突間に移設されており、跡地に何が装備されたのか不明なのだが、辛うじて写真に写っていないのが残念なところだ。
写真右上に探照燈台の支持架らしきものがあり、台座は撤去されていないようなので、恐らく測距儀を置いていたのではないかと思うが、定かではない。
さて、前回の写真の通り、天龍の測距儀には「球磨型」のように覆塔を付けた状態で制作していた。
これは、1941年 (昭和16年) の不鮮明な上空写真に、塊状の何かが写っていたところから推定したものだが、これは覆塔ではなく、測距儀に掛けたキャンバス覆いが風になびいて塊のように見えてしまっているのだろう。
あと、1934年 (昭和9年) の状態から、後半部の窓枠もなくなっている。
やっちまったな……。
当然、作り直しである。
元々、この状態で原稿を書き進めており、昨日あたりに公開するつもりだったのだが、直前で大どんでん返しである。
まあ、公開後に訂正記事を書いて、となると、読む方には判り辛いと思われるので、良しとしようか。
最後にもう一度、AKIベエ氏には、貴重な情報提供、あらためて御礼申しあげます。
参考書籍
- 「特集 艦艇の軍事機密」『一億人の昭和史 [10] 不許可写真史』毎日新聞社、1977年、144頁 ^1
- 『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年
参考ウェブサイト
- 『国立公文書館アジア歴史資料センター』
- Ref. C05034919300「第4726号 11. 10. 8 軍艦天龍二重天幕装置装備の件」防衛省防衛研究所所蔵、海軍省 呉海軍工廠、1936年、4-6頁 ^3
- Ref. C08050021300「昭和16年~17年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第1回 続 (2)」防衛省防衛研究所所蔵、海軍省、作成年不明、3頁 ^4
- Ref. C08030060600「昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌 (3)」防衛省防衛研究所所蔵、第十八戦隊司令部、1942年、5-7頁 ^5
- Ref. C08030060700「昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌 (4)」防衛省防衛研究所所蔵、第十八戦隊司令部、1942年、8頁 ^6
全て敬称略。