前回は、ハセガワの新キットで再現された1942年 (昭和17年) 次設定の要素について考えた。
今回はそれに引き続き、キットでは省略された開戦時と1942年時の差異について洗い出してみようと思う。
前回述べたとおり、「天龍」「龍田」とも、戦時中の外見上の大きな変化は専ら1942年 (昭和17年) 5~6月の入渠 (以下、「42年工事」) によるものだ。
前回大いに参考にした、学研の「歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2」における田村俊夫氏による記事 (以下、「田村考証」) で指摘のあるうち、キットでは触れられていない外見上の主な改正点は以下である。[1]
- 1. 艦尾爆雷投下台の増設 (これのみ同年1月)
- 2.「天龍」に舷外電路を装備
- 3. 魚雷発射管への防弾板装着
- 4. 船首楼後端の礼砲の撤去
- 5. 高角砲用弾薬箱の増設
これらは基本的に「田村考証」どおりと私も考えており、以下、キットの状態と比較してゆく。
艦尾爆雷投下台の増設
艦尾爆雷投下台の増設は数量については田村資料通りと思うが、解釈については異論がある。
これについてはスクラッチ版の際にも触れたので詳しくはそちらを参照していただきたいが、要約すると爆雷投下台の内1対を機雷敷設軌条と共有していたか否かの解釈の違いで、側面の投下台の設置数が異なる。
開戦時の爆雷投下台は2対4基で、1942年 (昭和17年) 1月に4対8基へ改正されている。[2]
田村資料では機雷敷設軌条を兼用せず、すべて単独の投下台として舷側装備したものとして図示しているが、私は一部の駆逐艦で見られたように1対は機雷敷設軌条と兼用し、残りを舷側装備したとみている。
キットの解釈は私と同様で、1対を機雷敷設軌条と兼用とした上で、増設後の状態としている。
開戦時とする場合は、舷側3対の投下台の内、前2対のモールドを削り落とすと良い。
キットは42年工事後の仕様。「田村考証」の解釈で作るなら、後方にもう1対追加。
「天龍」の舷外電路
第18戦隊戦時日誌 (以下、戦隊日誌)[3] と舞鶴鎮守府戦時日誌 (以下、舞鎮日誌) の工事記録[4] から、「天龍」は開戦時には舷外電路を装備しておらず、42年工事で装着しているのが判る。
また、「天龍」のみに工事指示が出ていることから、「龍田」は開戦前の出師工事の時点で装着済みであったことがうかがわれる。
キットでは開戦時とも舷外電路着き状態としているので、開戦時の「天龍」として作る場合は舷外電路を削り落としてやると良い。
魚雷発射管への防弾板装着
「天龍」「龍田」揃って参加したウェーク島攻略戦において、戦闘機からの銃撃で駆逐艦「如月」が魚雷に被弾、沈没した話は有名だが、それらの戦訓を受けて魚雷発射管へ防弾板が装備された。
装着状態の「天龍」の写真が残っており[5] 、不鮮明ながらも形状が判る。
煙突上部が修正されているため判りづらいが、艦橋から前部発射管を望んだ写真と思われる。
右は奥がキットパーツ、基本設計は良好なので上からプラ板を貼るだけで雰囲気は出せる。
訓令では魚雷頭部とあるが、写真を見る限りでは全体に渡って防御されているようだ。
防弾板は一見箱状に思えるが、よく見ると天面のみに装甲板を貼っている。
これは、キットの魚雷の天面にプラ板を貼るだけで簡単に再現できる。
礼砲の撤去
船首楼後端両舷には竣工時から山内式5cm礼砲が装備されていたが、銃増設等の代償重量として撤去されている。[6]
キットでは礼砲そのものがパーツ化されていないので、42年時はそのままでよい。
開戦時とする場合は、市販の単装機銃などを加工して追加してやると良いだろう。
写真は開戦時で製作したスクラッチ版。礼砲はピットロードの新武装セットの25mm単装を切り詰めて作成した。
高角砲用弾薬箱の増設
後甲板の8cm高角砲用に「弾薬包筐」増備の工事記録[7] があるが、元々この付近、戦前でも鮮明な写真が無く、キットでも弾薬箱らしきモールドは無い。装備自体は確定なので、機銃用のそれをもとに「らしく」作るしかない。
後述の戦隊日誌の記述に基づき、白塗りとしているのが弾薬箱。完全な推定なのだが、他に置けそうな場所もない。
次に、42年工事以外で、外観に大きな影響を与えた2点について。
ひとつは船体の欺瞞波塗装、もうひとつは艦橋のマントレットである。
船体の欺瞞波塗装
戦隊日誌に1942年 (昭和17年) 6月13日付で「特ニ定メラレタル他當隊限外舷塗粧ニ関シ左ノ通試行ス 一、艦首尾擬波ヲ画ク 二、測距儀及弾薬筐ヲ白色塗装ス」という指示がある。[8]
また、約1か月後の7月10日には「親令第157号 左ノ要領ニ依リ艏艉波ノ追加塗粧ヲ行フ可シ 七月十日 〇九四〇 一、現行擬波下方船底ヲモ白ク白線限界ヲ抹消ス 二、實施時機 重油補給前」とあり[9] 、6月の指示に基づく欺瞞波塗装が実施されたことと、白塗装が水線下、船底に及ぶまで拡張されたことが判る。
残念ながら、欺瞞波そのものの写真は見つけられなかったが、潜水母艦「長鯨」のに施されていたようなパターンと思われる。但し、「天龍型」の方がより高速であるため、艦首波はより高く描かれていたのではないだろうか。
「長鯨」は欺瞞波だけでなく、偽の魚雷発射管まで描くと云う徹底 (?) ぶりである。
艦橋のマントレット
「一億人の昭和史」に掲載された、1942年 (昭和17年) 6月頃の「天龍」と思われる写真[10] には羅針艦橋側面にマントレットが取り付けられている。
一般的なハンモックの束ではなく、数本のパイプを芯にキャンバスをぐるぐると巻きつけたスタイルで、布団の要にモコモコした質感である。
また、基本的に明るく写るハンモックに比べ、マントレットの色が構造物の鼠色と同等かやや暗めに写っているが、これが外舷用の鼠色を塗布したものなのか、模型の箱絵によくみられるカーキ色の布を用いたものなのかは判然としない。
マントレットの色がかなり暗いのに注目。
さて、最後に述べた「一億人の昭和史」の「天龍」の写真だが、元のキャプションが二等駆逐艦とされていたため、撮影データ通りの場所に「天龍」がいたのか行動記録を調べてみたことがあり、ホビージャパン誌のコラムでもそれを要約して掲載した。
以前の記事に載せた、行動記録をあてはめた地図。
元記事のキャプションでは「17年6月 (日時不明) ソロモン群島ショートランド島沖で臨戦準備の2等駆逐艦 (艦名不詳・中型) の艦橋 輸送船天竜丸から撮影 曇らず・錆びず・黴ない8センチ双眼鏡も不許可理由」とあるのだ。
で、当時は、キャプションの日時と場所は完全一致もしないけど、概ね南方だし誤差の範囲だろう、くらいのアバウトな結論をしていたのだが、岩重多四郎氏曰く「かなりの見当はずれ」らしく、どうがんばってもキャプション通り「輸送船天竜丸」が「17年6月 」に「ソロモン群島ショートランド島沖」に居るのは無理とのこと。
何と云うか、ゲームのルール内で攻略法を探していたら、そもそもゲームのルール自体が破綻していた、みたいなオチである。
しかし、写真のディテール的に「天龍」以外はあり得ないので、あらためて「天龍丸」からの撮影ではない、とした場合、これはいつの頃の「天龍」なのだろう?
特定要素としては、1937年 (昭和12年) の写真に固定化前の天蓋が写っているため、早くとも1938年 (昭和13年) 以降である。と云うか、艦橋周囲の情報が無いため、確定なのはそれだけである。
ただ、前掲のキャプションの内、妙に具体的である「17年6月」については恐らく写真に裏書があったと思われ、そこを疑い始めるとキリが無いので、現実的にはその頃の「天龍」とみて良いのではないか。「天龍丸」との邂逅よりは、「天龍」単独でショートランド辺りに居たとする方が、上図の通り無理が少ない (皆無ではない) 訳だし……と書くと、また怒られてしまうだろうか。
参考書籍
- 田村 俊夫「日本海軍最初の軽巡『天龍』『龍田』の知られざる兵装変遷」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、94~96頁^1、94頁^2、95頁^6
- 田村 俊夫「フォトドキュメント4『天龍』『龍田』」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ32 軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年、78頁^5
- 「特集 艦艇の軍事機密」『一億人の昭和史 [10] 不許可写真史』毎日新聞社、1977年、144頁 ^10
参考ウェブサイト
- 『国立公文書館アジア歴史資料センター』
- Ref. C08030057700「昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報 AA攻略作戦 (2)」防衛省防衛研究所所蔵、第十八戦隊司令部、1942年、56頁 ^3
- Ref. C08030060600「昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌 (3)」防衛省防衛研究所所蔵、舞鶴鎮守府、1942年、73頁 ^4
- Ref. C08030354300「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌 (3)」防衛省防衛研究所所蔵、舞鶴鎮守府、1942年、21頁 ^7
- Ref. C08030060600「昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌 (3)」防衛省防衛研究所所蔵、第十八戦隊司令部、1942年、3頁 ^8
- Ref. C08030060800「昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌 (5)」防衛省防衛研究所所蔵、第十八戦隊司令部、1942年、29頁 ^9
全て敬称略。
こんにちは由良之助です。たびたびのコメントですがよろしくお願いします。
現在、5500tの御紋章取付板の画像を龍門様の掲示板に投稿すべく準備中(写真を選んでいるだけですが)なのですが5500tをやっていると天龍級にも目がいってしまいます。
「龍田」の写真の少なさには閉口させられ、ハチマキ煙突や二本接ぎマストが明らかなのに「龍田」とキャプションの打ってある解説の多さに頭を抱えるばかりですが、「龍田」の御紋章が写っている写真(2枚しかみつかりません・・)を眺めていると「天龍」よりも位置が低く見えます。
「天龍」の写真はかなりありますから比較してみると、そもそも御紋章の大きさが違うように見えます。取付板の大きさは同じくらいに見えます。しかし「天龍」の御紋章は最上甲板より上の高さに収まっていますが、「龍田」は御紋章の下端がガンネルラインより下です。
ウォーターラインガイドブックに御紋章の寸法の数値が載っており、巡洋艦は600ミリと800ミリとなっています。「天龍」600「龍田」800とも考えましたが「天龍」の御紋章はもう少し小さく見えます(砲艦用の450ミリ?)し、「龍田」は800ミリもないでしょう。
さらによくよく考えてみますと防護・装甲巡洋艦の時代は御紋章は艦首材に直付けで、取付板を介するようになった巡洋艦は「天龍」が初めてのようです(もしかすると帝国軍艦史上初?)。と、しますと取付板方式を採用するにあたり、「天龍」では450ミリで試してみてこれでは小さすぎるからと試行錯誤を重ね・・・ここまでくると単なる妄想になりますが・・。
長々と書き連ねましたが件名としては
公的文書には断片的に「天龍」の資料がみられるようですが御紋章に関するものはあるのでしょうか?
という質問になります。
帯状疱疹は真面目で頑張る方がなりやすい病だそうです。根治も難しいらしいのですがまずはお体御自愛ください。
由良之助様
お見舞いありがとうございます。おかげさまで皮膚症状はほぼ完治し、今は神経痛との戦いです。
さて、御紋章の件、写真から見る限り、龍田600mm、天龍450mm? ではないかと思います。
実のところ御紋章はシルエットにあまり影響しないので、作例でもスルーしていました。
上記でリンク貼っている岩重氏にはしっかりツッコまれてしまいましたが。
手持ち資料とアジ歴を攫ってみましたが、御紋章関係は無いですねェ……。
設計時以降、とっかえひっかえするものでもないので、工事記録関係には残り辛いのだろうと思います。
お役に立てず申し訳ないです。
こんいちは由良之助です。すぐに御返答をいただいたようで、恐縮の至りです。
未だ快癒といえないなか調べものまでしていただき、ありがとうございます。
御紋章の大きさを規定した文書はあるのかもしれませんが、個艦毎の件になると難しいようです。
『シルエットに影響しない』というのは仰せの通りで、1/700で表現しようとすると却ってシルエットを崩すかもしれません。
「エッチングパーツセットを全部使う必要はない」というのと同じで「調べた事全てを模型に反映する必要はない」ということなのでしょう。
最後に、不躾な質問に真摯に御回答いただき、深く感謝いたします。
「パッチ」は「当て金」でよかったと思いますが、正式にはもう少し長い名称かもしれません。確かMOMOKO120%様のブログのハセガワ1/350に関する記事で見たような気がします。
由良之助さま
こんにちは。取捨選択の問題は縮尺率に比例して作品に占める比重が上がるので、1/700では何を拾うかのみならず、何を捨てるかと云う部分を見るのも鑑賞の際の楽しみにしています。追加工作の巧い人は勿論ですが、捨て方の巧い人はあこがれますね。商業ライターでは、細田勝久氏や故・鶴岡政之氏辺りの密度を目標にしています。
外板の件、なるほど流石MOMOKO氏です、知識の幅が広い。
おそらく一番詳しく言及されているのがこの記事ですね。
http://momo120.blog69.fc2.com/blog-entry-259.html
文中でも当て板、当金と表記が揺れていますので、あくまで技法としての名称は「当金継手」ですが、板部分は一般名称としての「当て板」すなわち直訳の「パッチ」でも誤りではないのかなあと思います。